賃貸アパート・マンションでの自死事案における事件処理の流れ
1 はじめに
賃貸アパート・マンションで自死があったとき、賃貸人(大家、オーナー)から遺族に対して損害賠償の請求が行われることがあります。請求の内容は、次の借り手がつかないことを根拠とする将来賃料、自死によって室内に汚損が生じたこと等を理由とする原状回復費用があります。これらを総称して「賃貸問題」と呼びます。
2 自死直後の遺族の対応
自死直後は精神的動揺に加えて、やらねばならないことが次々に発生します。法的知識を踏まえた対応を行うこと自体困難と思われますので、重要な判断や難しい判断はとりあえず後回しにして、まずは目の前にあることを一つ一つ片付けていけば良いと割り切ることも重要だと思います。
入居者の自死について賃貸人や管理会社に伝えるべきか
入居者や同居人が自死した場合、誰にどの範囲の情報まで伝えれば良いか、遺族としても迷うことが多いと思います。
多くの場合、消防や警察に出動要請を行うことになると思います。この場合、管理会社や賃貸人も死亡の事実を知ることになる可能性が高いと思われますので、法律家としては自死の事実を伝えざるを得ないだろうと考えます。
また、情報源は不明ですが、事故物件サイトなどで自死の事実が遺族に無断で掲載され、ここから賃貸人や管理会社が情報を入手することもあります。
3 賃貸人や管理会社からの連絡
自死後1〜3ヶ月ほど経過した段階で、入居者の自死を知った賃貸人や管理会社の方から、原状回復や損害賠償について何らかの提案があることが少なくありません。
金銭の請求があった場合には、まず、遺族がどのような立場(相続人か連帯保証人か。)で請求を受けているか確認する必要があります。また、何についていくら請求しているのか確認するため、明細を取得する必要もあります。さらに、賃貸借契約締結の際に、自死の場合の補償も対象とした保険に加入している事例もあるので、保険加入の有無も確認する必要があります。
また、その場での回答を求められても即答は避け、専門家に相談したうえで回答することをお勧めします。
相続人か連帯保証人か
賃貸借契約書に遺族が連帯保証人としてサインしている場合には、遺族固有の債務として賃貸人から損害賠償の請求を受けることになります。この場合、相続放棄をしても遺族が債務を免れることはできません。そのため、賃貸人の請求金額が過大であることを交渉や裁判で主張することになります。
他方で、遺族連帯保証人となっていない場合には、亡くなった方に目ぼしい財産がないのであれば相続放棄をすれば請求に応じる義務は無くなります。
ただし、後述するように請求額自体が過大である可能性もあるので、相続放棄をする前に一度専門家に相談することをお勧めします。
賃貸人からの過大請求が横行する現状
私たちが自死に関わる法律問題に取り組み始めた十数年前は、損害賠償額の相場や計算のルールがほとんど存在せず、遺族に対し1000万円近い金額が請求されることもありました。このようなケースへの対応として、私たちは必ず明細書を請求し、不合理な記載があれば徹底的に争うようにしています。裁判例も徐々に蓄積され、昔に比べれば、法的に成り立たないことが明らかな請求は減ったようにも思いますが、請求額を大きくすることを目的として、従前とは異なる新たな法律構成が主張されることもあります。
保険の確認は重要
賃貸契約書を作成する際に、保険に加入した覚えはないでしょうか。
最近は、自死によって発生した損害についても対象とする保険に加入しているケースも散見されるようになってきました。保険があれば、仮に賃貸人からの請求があったとしても、保険で全額もしくは一部負担してもらえることになります。保険加入の有無は管理会社もしくは入居時に物件を紹介してくれた仲介会社に一度確認することをお勧めします。
4 弁護士に相談
請求金額やその計算根拠が妥当と言えるかは、専門的知識が無いと判断が困難ですので、専門家に相談することをお勧めします。同種事案の経験がある、弁護士または司法書士が理想的でしょう。賃貸人からの請求は、大別して将来賃料と原状回復費用の二つに分類されます。弁護士はこの2種類の請求について、それぞれ法的根拠が認められるものであるか検討します。
賃貸事案を担当する専門家に求められる資質は?
アパートやマンションでで自死した場合に、賃貸人から損害賠償請求される事案(賃貸事案)は、十数年前から徐々に目立つようになりました。
裁判例では、孤独死した場合には損害賠償義務が否定される一方で、自死については当然に損害賠償義務が肯定されています。海外の新聞報道などによると、これは日本や韓国など東アジア特有の減少で、ヨーロッパなどでは損害賠償請求自体行われないのが一般だそうです。賃貸事案は、私たちの住む社会が自死に対してどのような評価を下しているのかを象徴しているように思います。
WHOの報告では、自死の98%が何らかの精神疾患の影響を受けているとのことです。自死の多くを、自らが選択した死、覚悟の死と評価し遺族への責任転嫁を当然視する社会は、あまりにも自己責任論的な発想に偏っていると言えないでしょうか。
遺族は精神的にも疲弊しているため、徹底抗戦よりも早期解決を優先させる判断が必要なこともあります。ただ、私たちは訴訟までもつれ込むような事案では、賃貸人からの損害賠償自体、自死に対する誤った理解や偏見に基づくものであり、許容されるべきではないとの主張を行ってきました。
賃貸事案を担当する専門家には、自死のメカニズムや自死に対する社会的偏見についての十分な理解と、社会的弱者の側に立つ人権感覚が求められます。
裁判例の中にも、「およそ個人の尊厳は死においても尊ばれなければならず、その意味における死に対する尊厳さは自殺かそれ以外の態様の死かによって差等を設けられるべきいわれはなく、また自殺という事実に対する評価は信条などの主観的なものによって左右されるところが大であって、自殺があったそのことが当該物件にとって一般的に嫌悪すべき歴史的背景であるとか、自殺によって交換価値が損なわれるものであるとかいうことは、とうてい客観的な法的価値判断というに値するものではない。」と述べたものがあります(福岡地裁平成2年10月2日決定・判例タイムズ737号239頁)。
5 交渉
弁護士に賃貸人との交渉を依頼した場合、まず、弁護士は賃貸人に対して明細書を要求し、請求額の計算根拠を確認します。
将来賃料、原状回復費用のそれぞれについて、過去の裁判例やガイドラインに照らして計算方法が妥当なものと言えるか、詳細に検討します。
検討の結果、請求額に根拠が無いと判断した場合には、その旨指摘して請求の減額を求めます。
将来賃料
自死によって気味悪がって次の借り手がつかないことを根拠に、将来家賃について損害賠償請求がなされることがあります。
将来家賃については複数の裁判例の蓄積があり、都市部の回転率の高い物件については将来家賃の2年分程度を損害として認めたものが多いですが、1年分を損害とした例もあります。なお、隣室や上下の階の将来家賃を請求した例もありますが、これを肯定した裁判例はありません。
原状回復請求
原状回復請求が認められるのは、現実に汚損が生じている箇所に限るというのが裁判例の立場です。ですので、現実に汚損が無いにも関わらずオールリフォーム相当額の原状回復費用を請求する賃貸人もいますが、そのような請求は認められません。
現実に汚損が生じた部分の原状回復費用については、国土交通省の原状回復ガイドラインを根拠に、費目ごとに請求額の妥当性を検討します。この場合にも、通常の使用によって生じる自然損耗については請求金額から控除されるので減額を要求すべきです。経年劣化による価値減損についても控除する必要があります。
不動産評価額の減少
投資用マンションなどで最近目立つのは、自死によって、当該マンションの一室について評価額が減少したとしてマンション評価額の3割~5割程度の損害を請求してくる事案です。
これについては、自死による評価額の低下は一時的なものに過ぎないことからすれば、特別損害として自死当時売却が入居者にも伝えられていた等の事情が無い限り損害賠償義務は無いとした裁判例が複数存在します。
また、自死の事案ではありませんが、東京地裁2003 年9月19 日判決(判例秘書L05833820)は、殺人事件から3年2カ月経過後の売買についてマンションの買主に対する損害賠償義務を否定しています。裁判所は、評価額の減少が永続的なものではなく時間の経過とともに回復すると理解しているようです。
6 訴訟
賃貸人が交渉での減額に応じなければ、裁判となります。
基本的には交渉段階と同様、裁判例やガイドラインを根拠に、金額面を中心に請求額の妥当性を争うこととなります。